福島原発現場作業員の声 [雑記]
ミクシーで見つけました。
もしかして作り話かもしれません、でも内容はとても信用性があると思います。
現実にこういう事が現場で起こってるんだと思います。
原発にちょっとでも触れた方ならご存知かと思いますが東電に限らず関電でも同じで直接的な現場作業は協力会社の社員がやってます、こういうシステムは建設現場でも同様ですよね。
ので災害で現場と本部との通信手段が悪化した今現場の情報把握に手間取るのも当たり前の事です。
ので安易に批判するのはよくないんじゃないかと思います。
(以下添付)
僕は福島に生まれ、都内に住み、電力会社に勤める23歳男です。
冒頭、このような場で大変失礼ではありますが、僕が地震発生から感じたことを書かせていただきます。
まずは被災者の皆様、犠牲となってしまった皆様、関係者の皆様、この度の御冥福をお祈り申し上げます。また、今もなお避難生活を強いられている皆様、とても大変で過酷ではありますが、ご無事で何よりです。まだまだ不安な日々は続きますが、何らかの形で貢献させていただきます。
では、僕の実体験を綴ります。
3月11日午後、いつも通り仕事をしていると、東北太平洋沖の大地震が起きました。
現場にいたので詳細はわからず、会社に戻って被害の大きさを知りました。
そのまま電源車に乗って福島の原発に行くように命じられ、福島に向かいました。
家族の安否が気になったものの、電話が通じずメールで原発に応援に行くとの内容を記載して送信。返事は確認出来ませんでした。
高速道路を緊急で走行していると、北上する度に道路は荒れていき、警備も厳戒になっていきました。
原発に到着するやいなや、避難しろと言われ、室内へ避難。放射線の関係と、余震での津波を警戒してとの避難でした。
ニュースでもやっていた通り、原子炉を冷やすためのポンプが、鉄塔の倒壊と津波により破壊され、ポンプの電源を救済するために応援を要請されたことを知りました。
建物を出れば、通常より多い放射線があり、完全防護服とマスクをしなければなりません。
考えただけでも外には出たくないような状況です。
しかし、僕達が外にでてポンプを動かさなければ、さらに深刻な状況になることも、同じ応援できた仲間達も感じていました。
同じ会社とは言え、家族もいれば、家族の安否すら確認出来ていない仲間達、部門が違うため、放射線や原子炉の状況はほとんど素人の理解度でした。
担当者の話を聞いても、予期せぬ状態に不安の色を隠せずにいる様子から、僕達の不安も高まりました。
しかし、それ以上に被災者やメディアを見ている国民は、もっと不安だったと思います。
仲間達と覚悟を決めて、ポンプの救済に着手しました。放射線には浴びる限界があるため、複数班に別れての行動となりました。
防護服とマスクを装置すると、呼吸は苦しく、視界は狭く、普段ではまず感じることの出来ない状態での仕事でした。
自分のローテーションが来るまで待機していると、室内に振動と轟音が鳴り響きました。ニュースでもやっていた爆発でした。その場には仲間がいました。不安は頂点に達し、ただただ仲間の帰りを待っていました。
爆発した場所からは100m程度離れており、幸いにも命に別条はありませんでした。
原因は、内部の水が蒸発し発生した水素が、上部に溜まり、爆発したとのことです。通常であれば弁が開き、大気中に水素を逃がせる構造ですが、電気が止まっており、弁が開かなかったようです。
現場の危険と不安がさらに積もりましたが、他の原子炉も同じような状態になってしまうため、一刻も早くポンプを動かさなければなりませんでした。
その時は爆発の原因が解明できず、他の原子炉を早く冷やすことを優先していました。
ついに自分の班が出向するときがきました。爆発直後ということもあり、不安はありましたが、不思議と使命感が勝っていました。
現場に到着すると、飛び散った金属片や、津波で流された車など、映画のセットのような状況でした。
過酷な環境での仕事を終え、建物に戻って待機となりました。建物は断水しており、トイレは仮説、食糧は非常食、一日で缶詰一個という生活でした。お風呂も入れず、隔離された室内で、土足の床に座っていました。
全員がほとんど不眠不休で対応をしました。
二日間の対応を終えて、交替のため、もう一箇所の原発に移動することになりました。
もう一箇所は、比較的被害は少なく、比べれば幸せな環境でした。
しかし、到着して間もなく、ふたたび振動と轟音が響きました。
二回目の爆発です。予め予想できていたため、仲間の被災はなかったものの、付近で作業をしていた人が数人怪我をしてしまいました。命に別条がなかっただけ幸いでした。
一回目も二回目も、順番が違っていれば、もしかしたら、自分はこうして皆様に、気持ちを伝えることができなかったかもしれません。
二回目の爆発ので、僕達が設置した電源車の4台は木っ端みじんになったと思われます。一台5000万円はするでしょう。一瞬で2億円が消えました。しかし、命にはかえられません。
それからは、もう一箇所の原発への影響もあるため、徐々に警戒が強まり、ふたたび隔離された部屋での生活となりました。
限られた食糧をみんなで回したり、知らない人とも協力しました。
原発の職員に話を聞くと、行方不明になった人は22と21歳の人で、地震発生後に至急で点検に向かった際に、津波に襲われて、建屋の地下に閉じ込められたそうです。逃げ場がない作業場で、正直助かる見込みは無いとのことでした。
当然職員は自宅には帰っておらず、家族の安否確認ができていない人や、自宅や家族は絶望的だと言っている人も沢山いました。
逃げかもしれません。言い訳かもしれません。応援して感じたことは、
人間が考えた耐震構造の建物も、
安全性も、
生活も、
人知を越えた天災が来た今、全てが無力です。
全てが破壊されました。
想像もできないようなものと闘っている感覚でした。
僕は今一回目の応援を終えて、東京に戻ってきました。やっと携帯がつながるようになり、五日ぶりに家族や友達と連絡を取りました。とても心配してくれていました。改めてたくさんの人達に支えられていると感じました。
五日ぶりのお風呂も、五日ぶりの暖かいご飯も、甘い食べ物も、全てが当たり前じゃなくて、幸せなことだと感じました。
今、会社では計画停電を実施しています。しかし、メディアを見ると、連絡がぎりぎりで対策に困るとの批判が多いようです。自分も電気を使っているのでお気持ちは重々承知しています。
言い訳かもしれません。ただ、会社はできることなら停電はさせたくない、生活必需品だから。という気持ちでいます。
電気が足りるか不足するか、その時皆様がどれだけ電気を使っているのかでわかります。寸前にならないとわからないのです。皆様が通常通り使えば当然使えない人が出てきますし、皆様が少しずつ節電して下されば、みんながちょっとずつ電気を使えます。
多少不便かもしれませんが、今は皆様の協力が必要です。皆様の生活が少しでも快適になるには、皆様が助け合うしかありません。
僕はまた原発応援に行きます。ちょっとでも変わるんだったら。微力だって頑張ります。皆様の不安と不満が無くなるのであれば。
長々となりましたが、最後にどうか。
忘れないでください。
被災地では犠牲者や被災者など、受け入れられない現実と闘っている人がいることを。
忘れないでください。
家族の安否もわからず、連絡もとれないところで、危険をかえりみず、復旧に全力を注いでいる人がいることを。
忘れないでください。
水も食糧も満足に取れない人がいることを。
忘れないでください。
お風呂にも入れず、家族とも彼氏とも連絡が取れないのに、復旧に従事する女性がいることを。
忘れないでください。
電気が点かず、暗闇で寒さと飢えに苦しんでいる人がいることを。
忘れないでください。
水もガスも食べ物もお風呂も、今の生活はみんなで作り上げられていることを。
どうか忘れないでください。
今の幸せを。
なんだかニュース見てたら泣けてきた。
客観的なことばかりで、現地がどんな状況か、メディアは報じてくれないから、現地を見た俺が今度は現地を紹介します。
対策本部は原子炉から500M程度でしょうか、少し離れたところの免振建屋にあります。
いろんな班が作られ、常に声かけ、走り周り、監視し、社内網の電話で電話し、各人が全力で仕事をしています。
相手は目に見えない、読めない、想像もできない
『天災』
です。
ずっと働いてた幹部だって、相手に壊された設備が、どのようになっているかなんてわかるわけない。経験と想像に有りったけのデータ、知識を練り込んで、全力の対策をしても、今のような状態です。
連絡が遅い?
そうでしょう。電話がつながらないもん。
会社の内線も、ネットワークもパンク状態で、なかなかつながりません。
情報は瞬時に伝えています。ただ、届けたくても届かないんです。
正確な情報が欲しければ、覚悟して現地に行ってみて下さい。
みんな不眠不休で頑張ってます。食べ物も水もありません。トイレだって仮説が満タンになってて、衛生面も芳しくありません。
そんな極限状態で、警報機を持って、息苦しい格好で現地に作業員が向かう。警報機なんて限界値にセットしても一時間足らずで鳴ってしまう。
でも行くしかないんです。やるしかないんです。
ぼやきなども聞きました。もし、現場が復旧しても、放射線を浴びすぎた人は、死にはしないけど、付着量が多くて、当分は落ちるまで敷地から出れないのではないかと。
20代だっていっぱいいるし、イケメンくんも、可愛い子もいた。みんなげっそりしながらも全うしてるよ。いくらオシャレしても、お化粧しても、今のが輝いてるね。
これからの長い人生、家族の状態もわかんない彼らに、なぜ批判があるのか。むしろ誇りではないのか。
確かにメディアにでるうちのお偉いさんは、僕も不満があります。現地をそのまま伝えてほしい。美化なんていらない。でも、あの人達にも多分
リアル
な情報なんて伝わってないんだろうな。
ホントに過酷なんだよ。
辛いんだよ。
ご飯もおやつも、お風呂も、趣味も、全部捨てて頑張ってる。
どうか、みんなの声を現地に届けたい。
次に応援に行ったらみんなに伝えたい。
闘っているのは霞ヶ関でも、本店でもない。
現場と応援してくれてるみんななんだよ。
これからみんなで同じ未来を描いて、新しい
リアル
を作りましょう。
もしかして作り話かもしれません、でも内容はとても信用性があると思います。
現実にこういう事が現場で起こってるんだと思います。
原発にちょっとでも触れた方ならご存知かと思いますが東電に限らず関電でも同じで直接的な現場作業は協力会社の社員がやってます、こういうシステムは建設現場でも同様ですよね。
ので災害で現場と本部との通信手段が悪化した今現場の情報把握に手間取るのも当たり前の事です。
ので安易に批判するのはよくないんじゃないかと思います。
(以下添付)
僕は福島に生まれ、都内に住み、電力会社に勤める23歳男です。
冒頭、このような場で大変失礼ではありますが、僕が地震発生から感じたことを書かせていただきます。
まずは被災者の皆様、犠牲となってしまった皆様、関係者の皆様、この度の御冥福をお祈り申し上げます。また、今もなお避難生活を強いられている皆様、とても大変で過酷ではありますが、ご無事で何よりです。まだまだ不安な日々は続きますが、何らかの形で貢献させていただきます。
では、僕の実体験を綴ります。
3月11日午後、いつも通り仕事をしていると、東北太平洋沖の大地震が起きました。
現場にいたので詳細はわからず、会社に戻って被害の大きさを知りました。
そのまま電源車に乗って福島の原発に行くように命じられ、福島に向かいました。
家族の安否が気になったものの、電話が通じずメールで原発に応援に行くとの内容を記載して送信。返事は確認出来ませんでした。
高速道路を緊急で走行していると、北上する度に道路は荒れていき、警備も厳戒になっていきました。
原発に到着するやいなや、避難しろと言われ、室内へ避難。放射線の関係と、余震での津波を警戒してとの避難でした。
ニュースでもやっていた通り、原子炉を冷やすためのポンプが、鉄塔の倒壊と津波により破壊され、ポンプの電源を救済するために応援を要請されたことを知りました。
建物を出れば、通常より多い放射線があり、完全防護服とマスクをしなければなりません。
考えただけでも外には出たくないような状況です。
しかし、僕達が外にでてポンプを動かさなければ、さらに深刻な状況になることも、同じ応援できた仲間達も感じていました。
同じ会社とは言え、家族もいれば、家族の安否すら確認出来ていない仲間達、部門が違うため、放射線や原子炉の状況はほとんど素人の理解度でした。
担当者の話を聞いても、予期せぬ状態に不安の色を隠せずにいる様子から、僕達の不安も高まりました。
しかし、それ以上に被災者やメディアを見ている国民は、もっと不安だったと思います。
仲間達と覚悟を決めて、ポンプの救済に着手しました。放射線には浴びる限界があるため、複数班に別れての行動となりました。
防護服とマスクを装置すると、呼吸は苦しく、視界は狭く、普段ではまず感じることの出来ない状態での仕事でした。
自分のローテーションが来るまで待機していると、室内に振動と轟音が鳴り響きました。ニュースでもやっていた爆発でした。その場には仲間がいました。不安は頂点に達し、ただただ仲間の帰りを待っていました。
爆発した場所からは100m程度離れており、幸いにも命に別条はありませんでした。
原因は、内部の水が蒸発し発生した水素が、上部に溜まり、爆発したとのことです。通常であれば弁が開き、大気中に水素を逃がせる構造ですが、電気が止まっており、弁が開かなかったようです。
現場の危険と不安がさらに積もりましたが、他の原子炉も同じような状態になってしまうため、一刻も早くポンプを動かさなければなりませんでした。
その時は爆発の原因が解明できず、他の原子炉を早く冷やすことを優先していました。
ついに自分の班が出向するときがきました。爆発直後ということもあり、不安はありましたが、不思議と使命感が勝っていました。
現場に到着すると、飛び散った金属片や、津波で流された車など、映画のセットのような状況でした。
過酷な環境での仕事を終え、建物に戻って待機となりました。建物は断水しており、トイレは仮説、食糧は非常食、一日で缶詰一個という生活でした。お風呂も入れず、隔離された室内で、土足の床に座っていました。
全員がほとんど不眠不休で対応をしました。
二日間の対応を終えて、交替のため、もう一箇所の原発に移動することになりました。
もう一箇所は、比較的被害は少なく、比べれば幸せな環境でした。
しかし、到着して間もなく、ふたたび振動と轟音が響きました。
二回目の爆発です。予め予想できていたため、仲間の被災はなかったものの、付近で作業をしていた人が数人怪我をしてしまいました。命に別条がなかっただけ幸いでした。
一回目も二回目も、順番が違っていれば、もしかしたら、自分はこうして皆様に、気持ちを伝えることができなかったかもしれません。
二回目の爆発ので、僕達が設置した電源車の4台は木っ端みじんになったと思われます。一台5000万円はするでしょう。一瞬で2億円が消えました。しかし、命にはかえられません。
それからは、もう一箇所の原発への影響もあるため、徐々に警戒が強まり、ふたたび隔離された部屋での生活となりました。
限られた食糧をみんなで回したり、知らない人とも協力しました。
原発の職員に話を聞くと、行方不明になった人は22と21歳の人で、地震発生後に至急で点検に向かった際に、津波に襲われて、建屋の地下に閉じ込められたそうです。逃げ場がない作業場で、正直助かる見込みは無いとのことでした。
当然職員は自宅には帰っておらず、家族の安否確認ができていない人や、自宅や家族は絶望的だと言っている人も沢山いました。
逃げかもしれません。言い訳かもしれません。応援して感じたことは、
人間が考えた耐震構造の建物も、
安全性も、
生活も、
人知を越えた天災が来た今、全てが無力です。
全てが破壊されました。
想像もできないようなものと闘っている感覚でした。
僕は今一回目の応援を終えて、東京に戻ってきました。やっと携帯がつながるようになり、五日ぶりに家族や友達と連絡を取りました。とても心配してくれていました。改めてたくさんの人達に支えられていると感じました。
五日ぶりのお風呂も、五日ぶりの暖かいご飯も、甘い食べ物も、全てが当たり前じゃなくて、幸せなことだと感じました。
今、会社では計画停電を実施しています。しかし、メディアを見ると、連絡がぎりぎりで対策に困るとの批判が多いようです。自分も電気を使っているのでお気持ちは重々承知しています。
言い訳かもしれません。ただ、会社はできることなら停電はさせたくない、生活必需品だから。という気持ちでいます。
電気が足りるか不足するか、その時皆様がどれだけ電気を使っているのかでわかります。寸前にならないとわからないのです。皆様が通常通り使えば当然使えない人が出てきますし、皆様が少しずつ節電して下されば、みんながちょっとずつ電気を使えます。
多少不便かもしれませんが、今は皆様の協力が必要です。皆様の生活が少しでも快適になるには、皆様が助け合うしかありません。
僕はまた原発応援に行きます。ちょっとでも変わるんだったら。微力だって頑張ります。皆様の不安と不満が無くなるのであれば。
長々となりましたが、最後にどうか。
忘れないでください。
被災地では犠牲者や被災者など、受け入れられない現実と闘っている人がいることを。
忘れないでください。
家族の安否もわからず、連絡もとれないところで、危険をかえりみず、復旧に全力を注いでいる人がいることを。
忘れないでください。
水も食糧も満足に取れない人がいることを。
忘れないでください。
お風呂にも入れず、家族とも彼氏とも連絡が取れないのに、復旧に従事する女性がいることを。
忘れないでください。
電気が点かず、暗闇で寒さと飢えに苦しんでいる人がいることを。
忘れないでください。
水もガスも食べ物もお風呂も、今の生活はみんなで作り上げられていることを。
どうか忘れないでください。
今の幸せを。
なんだかニュース見てたら泣けてきた。
客観的なことばかりで、現地がどんな状況か、メディアは報じてくれないから、現地を見た俺が今度は現地を紹介します。
対策本部は原子炉から500M程度でしょうか、少し離れたところの免振建屋にあります。
いろんな班が作られ、常に声かけ、走り周り、監視し、社内網の電話で電話し、各人が全力で仕事をしています。
相手は目に見えない、読めない、想像もできない
『天災』
です。
ずっと働いてた幹部だって、相手に壊された設備が、どのようになっているかなんてわかるわけない。経験と想像に有りったけのデータ、知識を練り込んで、全力の対策をしても、今のような状態です。
連絡が遅い?
そうでしょう。電話がつながらないもん。
会社の内線も、ネットワークもパンク状態で、なかなかつながりません。
情報は瞬時に伝えています。ただ、届けたくても届かないんです。
正確な情報が欲しければ、覚悟して現地に行ってみて下さい。
みんな不眠不休で頑張ってます。食べ物も水もありません。トイレだって仮説が満タンになってて、衛生面も芳しくありません。
そんな極限状態で、警報機を持って、息苦しい格好で現地に作業員が向かう。警報機なんて限界値にセットしても一時間足らずで鳴ってしまう。
でも行くしかないんです。やるしかないんです。
ぼやきなども聞きました。もし、現場が復旧しても、放射線を浴びすぎた人は、死にはしないけど、付着量が多くて、当分は落ちるまで敷地から出れないのではないかと。
20代だっていっぱいいるし、イケメンくんも、可愛い子もいた。みんなげっそりしながらも全うしてるよ。いくらオシャレしても、お化粧しても、今のが輝いてるね。
これからの長い人生、家族の状態もわかんない彼らに、なぜ批判があるのか。むしろ誇りではないのか。
確かにメディアにでるうちのお偉いさんは、僕も不満があります。現地をそのまま伝えてほしい。美化なんていらない。でも、あの人達にも多分
リアル
な情報なんて伝わってないんだろうな。
ホントに過酷なんだよ。
辛いんだよ。
ご飯もおやつも、お風呂も、趣味も、全部捨てて頑張ってる。
どうか、みんなの声を現地に届けたい。
次に応援に行ったらみんなに伝えたい。
闘っているのは霞ヶ関でも、本店でもない。
現場と応援してくれてるみんななんだよ。
これからみんなで同じ未来を描いて、新しい
リアル
を作りましょう。
本当の事の様に思います。
by 半世紀少年 (2011-03-17 20:59)
半世紀少年 さん
ありがとうございます。
自分も本当の確率高いと思ってここに転写しました〜
日本は処理がうまくいかず一時なにやってるんだとボロクソに報道してましたが米国では危険を顧みず放射能汚染から日本を守る勇気ある作業員達よと高い評価受けてました。
by イナテツ (2011-03-17 22:07)
内容は真実だと思います。
極限状態の中で仕事をしている状況が目に浮かびますね。
自分も成田空港開港時(昭和53年)のころは仕事で空港滑走路にいたから、空港建設反対派からの攻撃があり、死ぬか生きるかの現場は経験しております。
そういう意味で何時、最悪の事故につながるような危険な現場で復旧(復旧はないと思われるが)作業に携わっている人の紛れもない真実のことと思います。
福島原発の終息はいつになるのか、まだまだ長引くと思うが、不眠不休で頑張っている人たちが皆、無事で作業を終えられるよう祈りたい。
by yoji (2011-03-18 17:25)
私はよくわかる気がします。
何年か前の新潟地震の直後に通るのもはばかるような関越道を通っておじやの市役所など廻る仕事をしましたから。思い出すたびに涙がいまだにこみ上げてきます。
by かみねんど (2011-03-18 20:39)
yoji さん
職業がらyojiさんもそういう現場にいらっしゃったんじゃないかと思ってましたが改めてお聞きするとすごいなと感心致します。
ほんとよくぞご無事で! ですね。
福島原発は外部電源も入りそうですし確実に収束に向かってますね。
ほんとこれだけの大事故で最低限の放射線漏れで済んで良かったと思います、現場の方の努力が無ければ史上最悪の事態になるとこに。
あのロシアのチェリノブイリ事故でさえ原子炉は1個でした、しかし福島は6個も、そう考えるとほんと恐ろしかったです。
by イナテツ (2011-03-19 00:38)
かみねんど さん
ほんと極限状態にいると人間の素がでますよね〜
今まで威勢の良かった人が震え今まで頼りないと思ってた人が度胸座りと、ほんと人を見た目や上辺だけで判断するととんでもない事になりますね。
中越地震も大変でしたもんね〜 自分も思い出すと泣けてきます。
この時の教訓で原発もかなり耐震強度アップされたんですが今回は予想もせぬ大きな津波が押し寄せそれでこんな大きな事故に。。。
by イナテツ (2011-03-19 00:44)